「東京造形大学絵画専攻助手展 rgb+」10回を迎えてー対談(菊池遼×常田泰由×原田郁)

菊池(以下K):東京造形大学絵画専攻助手展「rgb+」が今年10回目を迎えましたが、これま
での振り返りの意味もこめてこの助手展の立ち上げに関わられた、常田泰由さんと原田郁さん
に当時の様子を伺っていきたいと思います。今日はどうぞよろしくお願いいたします。
常田・原田(以下T・H):よろしくお願いします。
K:まずは第一回目が開催された2009年当時の大学の様子を伺えますか?
H:2009年というと東京造形大学に大学院が出来て4年目(大学院造形研究科造形専攻・修士課
程が2005年に開設される)を迎えていましたが、変化のひとつとして大学院棟の一階にZOKEI
ギャラリーが新設されたんです。それまではマンズー美術館で例外的に開催される学生展以外
に学生が展示できるスペースは限られていました。唯一絵画棟には学生の自主運営のオルタナ
ティブスペース「node」が存在していましたが、翌年に新棟建設のために立ち消えになりま
す。そんななか母袋先生が授業の一環としてなら借りれるスペースがあるのだけれど、君たち
は興味あるかい?というような感じでZOKEIギャラリーについて声をかけて下さいました。
T:そうだったね。学内で学生がもっとゆるやかに成果発表できる、そういう中間的な場所が
それまでなかったんだよね。ちなみにその時の僕らの呼び名は助手ではなくて教務補佐という
ものだったんだけど、造形大に大学院ができる前は、研究生制度があって研究生は各コースの
研究室の共有道具や資材などもろもろ管理してくれてた。でも研究生の存在が無くなってそこ
らへんの業務も全部、教務補佐が担うことになったんだったね。院が出来たことによって僕た
ちの仕事内容や役割がより明確になってきていた。この時、僕は教務補佐4年目かな。
H:私は3年目だった。で、もうひとり大きな存在のリンちゃんこと平嶺林太郎くん。林太郎く
んは2年目で、この年この3人で教務補佐の仕事をやっていました。で、何から話せば良いのか
な。その当時のことで憶えているのは美術業界でバブルのようなものがあったこと。2005年辺
りからなのかな?いわゆるコマーシャル画廊というものが乱立して、アート市場の活性化が行
われ始めた。そこで求められたのが美大在学中の学生の絵だったりもして。美大生の青田刈り
~とか言われてたのを聞いていました。それまで美大在学生が展示をしたいとなったら、一生
懸命にアルバイトして貯めたお金20万円くらいを貸画廊に費やして、それでも一週間しか借り
れないとかそんなだった。
T:いやもっとしたかも、30万とか。
K:そうなんですね...!貸画廊の事情はちらっと聞いたことはありましたが。
H:私の印象では、学生たちの半数はそういった外側の美大生の青田刈り的動向に興味を引っ
張られて、気持ちが外へ外へ。確かにキラキラして魅力的に映りますよね、うまくいけば展示
場所にお金がかからないということもあるし。個人的に十分そういう気持ちは理解していたん
ですけど、こう、学内を見渡すと全体的に造形大学に通う意味とか学内で制作する意味みたい
なのが薄れていく、そんな匂いが一方ではしていて。勝手な想像ですが教授や非常勤の先生方
も戸惑われていた部分があったと思います。多分これは教務補佐という立場だったから感じた
ことなのだと思いますけど...。だから東京造形大絵画の良い雰囲気づくりをその当時の立場で
できる事ってなんだろう?とか考えてはいました。そんな、もやもやしていたタイミングで
ZOKEIギャラリーの使用について声をかけてもらったと記憶しています。
T:それと、僕たち教務補佐は授業準備や機材の貸し出しなどを行なっていたわけだけれど、
この教務補佐というポジションは当時の絵画専攻と彫刻専攻にしか配置されていなくて、大き
くみて大学的には認知度の低い立場だった。そろそろ助手制度を導入したいという話を聞いて
いたけれど、じゃあ前身の教務補佐とはどんな人間なのか、まずそこが全く伝わっていなかっ
た。というか僕たちが作品制作をしているのも知らない人が多かったよね。それと実は教務補
佐の先輩たちと何年間か「森の展覧会」という展示を高尾の森でやっていたんだ。後々、文房
堂ギャラリーでも開催したけど、なかなか会場が遠くて多くの人に観てもらえないという状況
だった。そういうのもあって、この第一回目の「rgb+」は僕たちの普段の制作や研究部分、存
在自体の表明になった気がする。
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K:ではもう少し具体的に、この展覧会名「rgb+」の由来や立ち上げの際のエピソードなどが
あればお聞きしたいのですが。
H:まず展覧会名については様々に考えました。キャッチーで普遍性がある...とか。さっきも話
した通り、その時は私達が東京造形大学で展覧会をやるという意味を第一に考えました。強く
打ち出さないとと思って。最終的に大学のスクールカラーの赤、青、緑、光の三原色にピンと
きて「rgb」を採用しました。絵画専攻の助手展ならば色の三原色CMY(K)であろうところ、
うーん、でも、色よりもまず光の存在が前提にあるわけだし、常田、原田、平嶺の3人の「3」
という数字にもこだわりたいし、とか。なんといっても光の三原色がいいなと決め手になった
のは光はエネルギー体だから、ということでした。新しいことを立ち上げるためには熱量が必
要だったから。そして、そこからこのステイトメント(※1 )が生まれました。すごく悩んで
簡潔に想いをまとめたので、結構気に入ってます(笑)
T:僕と原田さんとで頑張ったよね~ステイトメントのこの辺りはね。
H:うん、頑張ったよね。
(※1):『本展のタイトル[rgb]とは光の三原色red/green/blueです。三色の色光はその
組み合わせであらゆる色調を作り出すほか、混ぜるほどに明度が増しエネルギーが高まりま
す。そのエネルギーの高まりは、本展の三種三様の表現の響き合いで高められる作品のようで
もあります。
この私たちの作品が新しい時代・今に焦点を結び、表現と創造の可能性を示す光になることを
願いながら、時代性やそれぞれの独自性を[+]した新しい表現をこれからも探求していきま
す。』
H:で、少々内輪の話になりますが、今の私の夫は東京造形大学デザイン専攻でアドバタイジ
ングを学んでいたんですが、卒業後にデザイン事務所に就職し一足早く社会と接点を持って活
動していました。常田さんとも仲の良い間柄だったのもあり、展覧会のリーフレット制作につ
いて相談を持ちかけたんです。彼にロゴ作成やレイアウト、文字組みをお願いしました。表紙
のイラスト3人の頭部の似顔絵がありますけど、それも描いてもらったんだった。予算の関係
もありましたが、まずは収集しやすいサイズ感を探って結果A5判のジャバラ折に決定しまし
た。それで今後展覧会が継続していく場合はロゴとサイズ、フォーマットを踏襲させていくこ
とにしました。制作中にデザイナーである彼によく言われたのが、シンプルなDMデザインは誰
にでも作れるかもしれないけど、ここは美大だし、隣にはデザイン専攻の人間がいっぱいい
て、力を借りるには最高の場所。専門知識のある人に助けてもらうと仕上がりが全然違う。だ
から協力してやっていけばいいだけの話だ、と何度も聞かされました。なるほどなーとは思い
ながら、まだ大学全体が専攻別、縦割り組織感が強くて、その分私もマルチタスクでなければ
という強迫観念がありました。でもリーフレットが刷り上がってみて彼の言っている意味がよ
く理解できたんです。なのでそこからはだいぶ先の話になってしまうけど、助手展引き継ぎの
際にリーフレットは積極的にデザイン専攻の学生を引き入れていって欲しいという旨を伝えて
ました。
T:でも最初にリーフレットに力を入れたのは本当に意味があった。その流れで会場づくりま
での意識がぐっと高まった気がするよね。それで今日はここに居ないけれど、もう一人のメン
バー、平嶺林太郎くんのスペックがこの後光り出す。林太郎は作家活動もしていたけど、普段
から外にオルタナティブな場所を探しに出たり、プロジェクト型のアートイベントを立ち上げ
たり、人を集めて”展覧会をつくる”活動をしていた。だからあの展示しにくそうな味気ない
ZOKEIギャラリーをどの様に活用してインストールするかという部分で、色んな知恵を貸して
くれた。 アイキャッチになる作品を入口付近に配置したり、パーテーションを大型でしっかり
したボックス状にしたり、空間をあえて斜めに切るとかね。3人でもアイディアをいっぱい出し
合った。
H:思い出すと楽しかったね、夜な夜な。授業準備の後しか動けないし、やり切りたかったか
ら最後は警備員さんにお願いして3人徹夜で準備した。なんか卒制みたいだったなーと。実
際、開催時期が卒制の前だったので私達もいい緊張感があったのを覚えてます。
K:ふふふふ。
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K:それでは開催後どんな反応がありましたか?例えば教授陣などから何かコメントはありま
した?
T:かなり真剣にやったからね、僕たちのその真剣さは伝わったんじゃないかな...。実際、僕た
ちを機材貸し出ししてくれる人だと認識してた学生は、作品を通して僕たちが作家活動をして
いることを初めて認識してくれた。
H:常田さんはそれまでも学外でコンスタントに制作発表していたんだけど、それでも学内で
展覧会を開いたことでわかりやすく反響はあったんじゃないかな。やっぱり学内でやる意味は
大きかった。それで、私は当時の4年生と大学院生が何度も繰り返し観に来てくれたのを憶えて
ます。感度のいい学生達はかなり興味を持ってくれて。で、ZOKEIギャラリーってこんな風に
魅せれるんだ!いつもと全然違う空間に仕上がってる!みたいなコメントは沢山もらいまし
た。大袈裟だと思うけど初めて学内で展覧会に出会った、みたいなことまで言ってもらって。3
人それぞれの能力を結集させた結果...大成功だったんじゃないかな。そういえば教授達からは
どういう言葉をもらったかは憶えてないなあ、どうだったんだろう。
T:そうだね。
K:じゃあ、そこははさりげなく僕がヒアリングしておく事にしましょうか(笑)
その頃って、助手と学生とで作品の話をする機会ってあったんですか。
T:僕は版なのでで学生と共有の刷り部屋だったから、自然とコミュニケーションはあった
よ。
H:私は展示後に助手部屋を突きとめられて、勝手に覗かれてたみたい。気付くとお菓子が置
いてあったり「新作みました」とか突然声をかけられたり。分厚いファイルを持ってきて見て
欲しいと言う学生さんもいました。林太郎くんなんかは、それこそ大人気で、いつもワサワサ
学生を引き連れてた(笑)!
K:僕が学部生の頃は、青木豊さんと丸山恭世さんにとてもお世話になっていたんです。そのお
二人が作家としての姿を見せてくれて、それに僕はかなり影響を受けたので、僕も今助手とい
う立場になって学生には積極的に作家の姿を見せようとしているんです。その精神はその前か
ら始まっていたんですね。
H:その後、17年の歴史を持つかまぼこ型の旧絵画棟が壊される事になって、そこで最後に助
手と学生達とでかなり大きな展覧会を企画しました。(『camaboco』展/2010年)気が付いた
ら、絵画専攻の学生の制作や展示への意識がそれはそれはもの凄い高まりをみせていて、私も
圧倒されました。学内がかなり熱かったと思います。最初の思惑からしたらこの流れと結果も
大成功と呼べるのでしょうね。その後CSプラザが完成したり、様々なインフラが整って全学科
に助手が配置されて...。大学単位の助手展が開かれることにも繋がって行ったのではないかな
と推測します。でも私達3人は「rgb+」でその当時やるべきだと思った事、自分達がやれる事
に全力で向き合ったというだけで、あとは後続の助手さん達に託したんですけど、このように
10回も続いていて素直に嬉しいです。そして今回は歴代教務補佐の先輩、先生方をお呼びして
一緒に展示ができたのも記念に残ることですよね。
T:今後も続けていくなかでは開催する意味合いや意味付けが変化していくと思います。そこ
が難しいところでもあるけれど、絵画専攻助手のひとつの歴史になりかけているし、バトンを
良い形で渡していって貰えたら嬉しいです。
K:今日はありがとうございました、色々当時のお話を聞けて楽しかったです!
T・H:こちらこそ、ありがとうございました。
(2018年12月28日 常田泰由さんのスタジオにて)